はじまり

錦糸町界隈の歴史の始まりは定かではありませんが、平安・鎌倉時代にかけて、葛西堤(葛西の海岸線)である隅田(洲田)・寺島・須崎(洲崎)・請地(浮地)・押上・小村井(小村江)・亀戸(亀津)・平井(平江)・市川に連なる外側の海中に中州として発展する柳島が拡大していった最南端部にあたるのが、錦糸町ではないかと考えられています。天正18年(1590)に徳川家康が江戸入府する頃には、海が湿地帯、陸地化され、この辺りの海岸線は、一般にもう小名木川辺りになっていたといわれています。

明暦の大火

錦糸町を含む、本所地域の開発の契機となったのは、明暦三年(1657 )1月に 俗に「振袖火事」といわれる「明暦の大火」が起こり、江戸の過半が焼失したことによります。この大火を受け、幕府は、江戸の町づくりと防火対策を根本から見直し、万治2年(1659)に両国橋を架設します。両国橋の架設により、幕府は、武家屋敷などを移転させるため、両国橋東岸の開発に着手。これが世にいう「本所開拓」です。碁盤の目状に町割が敷かれ、道路のほか、竪川や大横川、十間川、南北の割下水といった掘割が整備されました。

錦糸町界隈の開発

「本所開拓」における、錦糸町界隈の開発は最東部に当たり、竪川沿いや横川沿いの町屋が早くから開け、柳原・茅場・北松代町などの町々が定着し、川筋を利用した四ツ目の前栽市場(青物市場)ができていきました。本所御蔵の堀に連なる南割下水は、横川の東では俗に「錦糸堀」と呼ばれました。この「錦糸堀」は、現在の総武線線路用地北側にあった掘割で、本所七不思議の一つである「おいてけ堀」などにも目されていた程、淋しいところでした。

町名の由来

現在の錦糸町駅北側の「錦糸町」の由来は、明治5年(1872)に士族小邸を合併し、新規に町としたことによります。俗称でこの辺りが「錦糸掘」と呼ばれていたことから、「錦糸町」と名付けられました。因みに、「錦糸堀」については、岸堀がなまったとか、琴糸を作っていたからともいわれますが、東西に通じる堀なので朝日、夕日の照り映えからいわれたのではないかなど諸説あります。
錦糸町駅南側の「江東橋」は、昭和5年に、大横川に架る橋の名(江東橋)を町名としました。江東橋界隈に少し触れると、古くは、汽車会社平岡工場があり、その跡地に現在の東京楽天地が設立されたことや、現在の両国高校辺りには、日本初の国産マッチ製造工場(新燧社)があったこと、歌人 伊藤 左千夫が現在の南口バスロータリー付近に牧場を設けて、搾乳業を営んでいたことなどのエピソードがあります。